tadashiriの日記(仮)

つらそうにしている、人

そのうちウギャーってなって消す気がする

 しばらくない三連休を半ば自傷行為に近い食っちゃ寝の暴飲暴食に費やし、それが明けたところの三連勤の一日目をとりあえず終えた。どうしようもないぐらい金がないのに、ある地域のバーについて尋ねてみるために一杯だけ行きつけで酒を飲んだ。マスターにその話題を持ち出すことはもちろんバーに行ってよいと思うための言い訳ではあるのだが、この程度なら言い訳は言い訳であっていいと思った。陸に溺れながらなんとか生きている心地なので、極力自分を追い込んだり、意識的に反省しようとしてみたりしないようにしている。

 今日は『スプートニクの恋人』を読み終えた。実に数年越しの積ン読である。面白かったけど、なんていうか、うまく言葉にならない。うまく言葉にならないこと自体、もっとも安易なかたちで自分が作品世界に絡めとられたようで癪なので、これから外堀を延々と埋めていく。つまり、堂々と作品に絡めとられたことを、手足を遮二無二振り回すことで表現しようというのである。また、その外堀埋めがいわゆる本質やらなんやらに近づく手掛かりになるかというと全くならないと思うとは言っておく、そもそも2018年になって『スプートニクの恋人』の本質に近づこうとする行為を誰かが面白がってくれると全く思えないではあるし、そういうのがすでにめちゃくちゃあって、それを読んでから書いた方が僕がこれからかく恥も半減するだろうとは思う。ただ絡めとられたものとして、素面にかえって何も書けなくなる前に、あらゆる読み手をキモくする作家であるところの村上春樹作品によってキモくなった様を晒したい、積極的に黒歴史を量産したい、そういう気持ちになったといえば、いつかめっちゃキモくなったことがある方ならわかってもらえると思う。いや、めちゃくちゃ恥ずかしい文章を書くことにおける救いは、わかってもらうことの他にないのだから、誰かわかってくれないとこまる。(わかりますと言われても困るかもしれないが)

 前置きが長くなってしまったうえでそろそろ本題に入ると言いたいところだけど、前置きが一番僕の共感されたいところになることは、まだ書いてる途中だけどわかりきっている。だって本題といいつつ外堀を埋めるだけだし。

 集中するまで、集中してもなお、僕はとにかく比較によって作品を鑑賞するくせがある。常に脳の中に地図を作ろうとするくせというか、一種の思考の省略だと思う。実際には地図というより玉子スープみたいに、かき混ぜるたびに形を変える、意味をなさないものだとは思うけど。そこまで自虐的に言っておいて、僕は『スプートニクの恋人』を読んだ最中や、シティ・ポップといわれるような曲を聴くときに、ウイスキーでいう”スムースさ”に近いものさしを持ち出す。それは言い換えると”耽溺しやすさ”とも思えるし”ホスピタリティ”だとも思える。もっと具体的に言うと、ちょっとぎょっとするほどお洒落でないような、美意識の決定的な欠落のようなところ、そういうのがないことだ。そういう意味ではそもそも「ミュウ」って!と思わなくもなかったし、どうしても「フェルディナンド」って!とは思った。あと、”チノパン”ですら”チノ・パンツ”と村上春樹化されているのにはちょっと笑ってしまった。ただ、「すみれ」と「ミュウ」と「ぼく」と並べてみると、やっぱり妙に収まりがよく感じるから、すごいなあと思う。

 あと、「すみれ」の書いた「文書1」の語尾は、『蒲団』のパロディなのかな、と思った。だとしたら、『蒲団』の主人公は実在し、「すみれ」は実在しないが、後者の懊悩の方が切実に思った。それは『スプートニクの恋人』側というよりは『蒲団』側の問題である。なんだろう、おそらく『蒲団』を読んだときに、「これが真に迫るってことなんですよ」とニヤついてるおっさんの顔がどうやっても浮かんでしまうから。いや、村上春樹もそう思いながら書いてるような気はするのだが。

 あと、「すみれ」のほとんど悪辣なパロディのような美大生や文学少女について思い起こしたら、猛烈な吐き気を催した。(この一文に分かりが発生する人はとっくに吐いてるかこの一文に辿り着けていないと思う)(ちなみにこういうのを「カリオストロ問題」「カリオストロのパクリ問題」と言ったりする)

 すげー疲れた。寝る。

 

 

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村上春樹スプートニクの恋人